師匠 彷徨編

2018年08月

 リビングのソファーに座ると「何か作ろうか?」と美佐江が言い出した。「パスタならすぐできるし、レトルトだけどパスタソースあるから」と言ってキッチンに向かうと「手伝う」と言って恵子も追いかけた。「さっきまで皮肉を言い合って険悪だったのに・・・しかも昼もパスタ・・・」と思い呆れたけど、空腹が良くないと思った。空腹は神経を苛立たせる。ほどなくして、二人は何の拘りもない様子で茹でたてのパスタとソースをそれぞれ大皿に盛って、茹でたフランクフルトと缶詰のホワイトアスパラと白ワインをテーブルに並べた。
「カオル、こんなのしかないけど食べましょ」
「ああ、不良主婦じゃ、この程度だよな」と返した。
会話は少なかったが、3人とも僅かな時間で料理をたいらげ、白ワインはボトル2本が空になった。
「オケイ、久しぶりだね。昔はよく泊まりに来てこんなの食べたよね」
「和彦君も子供達も一緒にね」
「そうね、今はどっちもいないけど。あっ、その代わりカオルがいるか」
「俺はピンチヒッターなんだ?」
空腹が満たされ、酔いも回り始めた。ギクシャクした会話は徐々にスムーズになってきて、たわいない冗談に笑顔が見えた頃には、恵子はだいぶ効いてきたように見えた。
「カオル、ビール飲もう。エビスとハイネケンあるけど、どっち?オケイも飲んじゃう?」
「いや、これ以上飲むと、帰れなくなっちゃうから遠慮しておく」
「いいじゃない、二人とも泊まっちゃえば?今夜は亭主に虐められた哀れな私を一人にするのは罪だよ」
「私はいいけど、社長は・・・ねぇ」
「俺は帰るよ。二人で仲良くやってよ。仕事のパートナーになるんだし」
「じゃ、もう少し付き合いなさいよ。ビールくらいいいでしょ?」
そういうと美佐江は半ば強引にビールを運び、3缶を開栓してそれぞれに手渡し「乾杯」した。そして、ビールを飲み終わらないうちに恵子は
「ミサ、私もう駄目、寝ちゃう」
と言ってソファーにもたれかかって目を閉じてしまった。
「この離婚主婦、寝ちゃったね」
「じゃ、俺もそろそろ・・・」
「待って。ねぇ、キスしよ」
「恵子が起きるよ」
「起きないわよ」
そう言って美佐江はもたれかかってきた。恵子に注意を払いながら酒と煙草にまみれたお互いの舌を荒々しく吸い合い、美佐江に導かれて豊かな胸を胸元から手を入れてまさぐり始めた時、恵子の瞼が動いたような気がした。「まずい、恵子に嵌められたか?」と思った。おそらく恵子は気付いたのだろう。いや、それ以前に美佐江との関係に気付いていて、一芝居打たれた気がした。
「美佐江、本当に今夜はもう帰るよ。代行呼んでくれないか?」
「わかったわ」
美佐江が電話すると混んでて30分くらいかかると言われた。
「外で待つよ」
と言って玄関を出ると、美佐江が追ってきた。

 肌寒いくらいの屋外に出ると、午後になって止んだ雨が再び霧雨のように降り始めていた。通りに面した門扉から玄関までのアプローチは石段になっていて雨に濡れて滑りやすく、塀沿いの丈の高い何本かの植木の間に支柱が設けられ、感応式の監視カメラとガーデンライトが玄関先を狙っていた。
「監視カメラは何台ある?」
「和彦の会社で売ってるやつよ。外に3台あるかな」
「室内もあったりして・・・」
「怖いこと、言わないでよ」
そう言いながら美佐江は傘を開いて差し出した。
「ねぇ、カオル。見られたっていいじゃない。オケイだって二股かけてたんだから・・・」
「まぁ、そうだけど。でもまた喧嘩になるよ」
「なってもすぐに元通りだから。ほんとはね、和彦は強引にオケイとしちゃったのよ。私、知ってるんだから」
「でも恵子は危ないこともあったけど関係してないって言ってたぞ」
「そんなの嘘よ。和彦は親友よりいいだろ?って言ってお店の子に手をつけたのよ。それが今の女」
「それじゃ確信ないじゃない」
「和彦はね、そういう男なの。だって私と付き合い始めても切れなかったし。そういう関係ってすぐに戻っちゃうのよ」
「そうか・・・」
「オケイは人の亭主と関係しながら何食わぬ顔で親友やってたわけよ。でも、私は仕方ないと思うけど」
「友情?」
そう聞くと美佐江は、シリアスな表情を浮かべ話し始めた。
「オケイはね、高校の頃、不良連中に虐められてレイプされちゃったのよ。その時は本当にかわいそうだった。結局親にも学校にも言えなくて、もうボロボロになっちゃって。左のね、手首に傷あるのよ。何度か植皮してだいぶ薄くなったけど、リストカットした時の傷なのね。親から私に電話来て、何かあったの?と聞かれたけど私も言えなかった。だからしばらくは男性恐怖症というか、精神的にね。そんな恵子を救ったというか、立ち直らせたのは、ある意味和彦なんだよね」
「そんなことがあったんだぁ」
「けど、和彦にしてみると、その話を告白されちゃって、なんか重くなっちゃったのよ。それで私のほうへ寝返ったというか・・・。それに多分、私のほうが水商売向きだと思ったのね。親の商売継ぐには私のほうが都合がよかった」
「それで美佐江と?」
「私ももちろん、オケイの彼だって知ってたし・・・、でも本当のこと言ってオケイは私にとっても重くなってたから。和彦、強引だったしね、信じないだろうけど、私、いい歳して初めてだった。」
ガーデンライトに浮かび上がる霧雨が徐々に激しくなってきて、二人とも傘からはみ出た部分がしっぽりと濡れてしまった。できるだけ寄り添いながらの立ち話で、恵子の過去を聞かされた。美佐江に悪意があるとは思わなかったが、自分の存在が二人の間に新たな蟠りを生むことは明らかだと感じた。
「それでよく今まで続いたな」
「だって・・・負い目があるのは私のほうだよ。それにオケイは誰かに頼ってないとダメな性格なのね。だからカオルにずっと頼りきりだったんじゃない?」
「そういうの、気付かなかったなぁ」
「きっとご主人じゃ物足りないのよ。もっと強い人じゃないと」
「じゃ、どうしてお見合いまでして農家に嫁いだんだろ?」
「私と親友でいるため、かな」
和彦と美佐江が結婚した以上、恵子は身の置き処を失ったのだ。もちろん、和彦や美佐江に対する不信感もあっただろうし、その時はもっとも辛い思いをしていただろう。けれども恵子は、和彦と美佐江から離れることはできなかった。後を追うように結婚して身を固め、常に二人への蟠りを残したまま、美佐江との関係を続けるしかなかったのかもしれない。

「ねぇ、カオル。もしも未練があるならオケイに戻ってもいいよ」
「いや、俺は切れたから。それにさ、俺も女房のことでは酷い亭主だから・・・」
「それもそうね。奥さんは大事にしないとね。こんな私が言えた義理じゃないけど」
「女房、実は癌でさ・・・東京で治療してるのよ」
「えっ!本当に?」
「乳癌、見つかったときステージⅢbだった」
「それで東京で治療してるってこと?」
「そう。長女のところから通院しながら。こっちで手術したけど再発でさ」
そういうと美佐江の顔色が変わった。
「いままで、家庭なんか顧みないで仕事ばっかでさ、本当に最悪の亭主よ」
「そんなこと、言わないでよ。私、聞きたくなかったなぁ」
「ごめん、言うべきじゃなかったな」
肩を寄せ合ったまま沈黙し、美佐江が二人の関係を確かめるように手を握り締めて、立ちすくんだ。何台かの車のヘッドライトが通り過ぎるたびに、別れの時間が来たと脅えた。
「私、ほんとに悪い女になっちゃった」
「俺も同罪だよ」
「こんな商売してると心が荒むんだよね・・・」
「俺だって同じようなものだよ」
「けど、寂しくて・・・」
「ああ」
美佐江の目頭から涙がこぼれた。そして、抱き締めて頬を拭うように胸元に押しつけた。
「私のこと、好きだった?」
「ああ、好きだよ」
「好きだから抱いたんだよね?」
「ああ」
「でも、勘が当たっちゃった。今日が最後かもしれないって・・・」
「勘?」
「そんな気がしたのよ。お互い、知れば知るほど辛くなるから・・・」
「ああ」
「今日はありがとう。私、なんとかやってみる。もうカオルには頼らないからね」
「無理するなよ、何かあったら相談にのるから」
「そんなに優しくしないで。甘えるから。オケイと頑張ってみるから」
「でも、約束な。厳しくなったら必ず連絡してくれよ」
美佐江は声にならずに胸の中で何度か相槌を打った。そしてこらえ切れなくなって「うぅぅぅ」と声をあげて泣いた。
「ああ、カオル、最後にもう一度キスして」
「代行来るよ」
「来るまでずっと。お願い」
霧雨が雨に変わった。傘を落として濡れながら美佐江を抱きしめた。
 

 井上恵子には、かつて数年間不倫関係にあって、随分と社内で損な役割を演じてもらって、迷惑をかけたという思いは少なからずあった。自殺した佐倉との関係を知った時も動揺はしたが、何も言える立場ではないと思った。ただ、上場の夢を砕かれたきっかけになった佐倉の架空取引の事実を、最初から恵子は知っていたわけで、その部分だけは許す心境にはなれないでいた。その恵子とこうして美佐江の商売の話で相対していることに違和感を感じていたし、恵子自身も居心地が悪かっただろう。だが、美佐江には、恵子の恋人だった和彦を受け入れてしまった負い目がある。恵子は和彦の裏切りを認めても、高校時代からの親友の関係を維持したし、窮地に陥った美佐江がそんな恵子を頼ろうとするのも分らないではなかった。
「美佐江の旦那の和彦君は年下なんですよ。苦労知らずのおぼっちゃん的なところがあって、美佐江に甘えてるんです」
接待用で使う店としてラネージュを恵子から紹介されたとき、美佐江夫婦との関係を聞かされた覚えがあった。
「和彦君は、美佐江と結婚してからも内緒でアプローチしてきて・・・危なかったこともあったけど、親友の旦那とまさかねぇ・・・」
そう聞かされた時、恵子と美佐江夫婦の関係はいまだに微妙なのかな、と感じた。
その恵子にも退社後1年と10ヶ月の間、冷たい雨が降り注いでいたのだろう。見合い結婚した公務員のご主人は地味な人で、農家の長男であるにも関わらず農業を継ぐ意思はなかった。嫁ぎ先には舅と姑がいたが、舅は脳卒中で姑は痴呆でそれぞれ別の施設に入所し、それを恵子は黙って最後まで介護しながら、仕事をしていた。そして佐倉と関係ができ、人身事故を起こして身柄を拘束され、最後には佐倉の自殺のこともあって身を引かねばならなくなった。その間、ずっと恵子との不倫関係は続いていて、退社して関係が切れたことが恵子にどれほどの影響があったのかは分からない。けれど、一人の女性として重荷を背負い続けていたことだけは確かだった。長女は結婚することなくシングルマザーとして出産した。そしてその孫の面倒を見て過ごすと言っていたが、奔放過ぎる娘やすべて任せきりでマイペースのご主人に対する不満は、抑えきれないレベルに達していたのだろう。それでなくてもずっと会社に身を置いていて、地方公務員であるご主人との考え方の落差を埋められないと不満を言うことが多かった。

 事務所を出る頃には雨は上がっていたが、湿度の多い夕闇に包まれてしかもやけに肌寒かった。エントランスまで来て、美佐江が「夕ご飯、三人で」と言い出して、娘がいるからと遠慮したが、「三人で食べる機会は今日が最後かもしれないよ」と含みを持たせた言い方をして、恵子も同意したので押し切られた。
「オケイは今日、泊まって行くって。だからうちの近所の三峰行こうよ」
「それ、日本料理?」
「割烹かな。小さなお店で、ほら、組合員だからときどき使わないとね」
そう言いかけて美佐江の携帯が鳴った。
「旦那がちょっと帰るらしいから、先に行ってて。どうせ嫌な話なんだから。オケイ知ってるよね、三峰。先に食べててよ」
そう言い残して、怪訝な顔つきになって車に乗り込み走り去った。
「ミサはいつもマイペースなんだから・・・」
と恵子は苦笑いを浮かべ、二人残されたことへの気まずさもあって「行こうか」と小声で促し車に乗り込んだ。車内では道案内の会話以外、お互いに話そうとせず、重苦しい雰囲気になった。賑やかな通りを抜け、美佐江の自宅近くの住宅街の一角にある割烹三峰に10分ほどで到着し、道を挟んた対面の5台ほどの駐車スペースに車を止めた。格子戸を開けると檜のしっかりしたカウンターに一組の男女の客がいた。寿司屋のような板場があり奥には仕切られた和室とテーブル席がある小奇麗な店だった。女将らしき中年の着物姿の女性に「いらっしゃいませ」と丁重に挨拶され「さきほど、ご連絡いただきましたので」と、箸とお通しの並べられた奥側の座敷に通され恵子と向かい合った。
「社長、本当にすみませんでした。ご迷惑かけてしまって・・・私、責任感じてます」
「過ぎたことだよ」
「上場、社長の夢だったのに・・・私のせいで・・・」
「恵子のせいとは思ってないよ。俺自身の運命だと思ってる。だからもう忘れてよ」
そう言わなければ、その場は収まらなかった。この後美佐江も合流するから、奇妙な三人の関係をなんとかやり過ごさねばならないと思った。どの道、大人同士だから、無闇に荒立てるようなことにはならないだろう。けれど今となってはいろいろな事情が絡み合った三角関係であることは、間違いなかった。
「旦那と別れるの?」
「そう言って家を出たんですよ。でも、相手がなかなか承諾しなくて・・・」
「お金の問題とか?」
「それもあるけど、ほら、農家なんで世間体ばかり・・・」
「揉めるんだ?」
「親戚とか周りが嫌なんですよ。ほんと煩いし・・・」
そう言って恵子は今の身の上を説明した。
「でも、いろいろあったなぁ・・・・」
1年と10ヶ月ぶりの恵子は、相応の年齢を感じさせるようになった。一旦、仕事を離れると人目を余り意識することがなくなってしまって、メイクもしっかりとしてきてはいたが、あの頃のブラウスとタイトの似合う面影が薄くなったなと感じた。そして時折見せる陰のある表情が、決して幸せでないと訴えていた。
「ミサと親しくなったんですね」
「その後も何度かお店使ってるし、苦しいこともわかるしな。俺も会社楽じゃないから」
恵子は俺と美佐江のやり取りで、微妙な空気を感じたのは間違いなかった。
「ミサも別れたいって言ってませんか?」
「聞いてないよ」
そう答えてお茶を濁した。

「待たせてごめん」
30分ほどして、美佐江が女将に挨拶し料理と生ビールを注文してから恵子の隣に座った。気付いてはいたが改めて正面から向かい合うと、美佐江はまるで別人のように感じる。営業用のメイクは確かに美人顔になるけれど、同時に近寄りがたさを感じさせるのだ。
「カオル、何見てる?なんか顔についてる?」
しばし見つめると美佐江がすぐに反応した。
「営業用のメイクしてないからね。そういえば、初めてかな?」
「初めて」
初めてではなかったけれど、恵子の手前話を合わせた。
「どっちがいい女?」
「今、かな」
「じゃ、私とオケイはどっち?」
「どっちも」
「優柔不断だね。こういう男っているんだよね。オケイ、気をつけなさい。こういう男に」
そう言って美佐江はおどけて見せたが、目元のメイクが滲んでいて腫れていることはすぐに気付いた。そして、そのことを恵子がすぐに指摘した。
「和彦と揉めた?喧嘩したでしょ」
「オケイには隠せないね。やっちゃったよ、だって無茶苦茶なんだもん」
そう言うとこちらを向いて
「カオル、ほら親の土地売った三千のうち、千はこっちに回すって言ったのに・・・やっぱり全部ないと足りないって言い出したのよ。酷いでしょ?」
「そうなんだ」
「だって、この商売だって自分の責任じゃない?親から受け継いだ商売だよ。それなのに、無責任にもほどがあるよね」
そう言って美佐江は運ばれたビールを半分一気に飲んで、溜息をついた。
「どうせ、いまだって、あの女と一緒なんだよ。別れたなんて嘘ばっかり言って。ほんと、私も別れちゃおうかなぁ・・・」
「ミサ、短気はだめだよ。私の前では禁句だからね」
「オケイ、それ、どういう意味?もしかして私が和彦を盗ったってこと?」
「そんなこと、言ってないじゃない」
「言ってるよ。そう思ってるんだ?オケイは」
険悪な雰囲気になりかけて慌てて間に割り込んだ。親友同士だからこそ、遠慮のない言い回しになる。それが拗れると思わぬ喧嘩になることは、良くあることだ。
「二人とも売り言葉に買い言葉はだめよ。ここで揉める理由なんかないからさ」
「そうね、昔のことだからね。オケイだってさっさとお見合いして嫁いじゃったし」
「私は辛かったのよ」
「そういうこと?辛いからって結婚されたらたまらないよね、ご主人も」
それでも美佐江の皮肉めいた口調は止まらなかった。
「で、和彦君は?出て行っちゃったの?」
「どうせ、女のところへ行ったのよ。オケイ、チャンスかも。いまなら和彦、盗れるかも」
「ミサ!いい加減にしてよ」
・・・・
しばし、二人の剣のあるやり取りが続いていたたまれなくなり、「出ようか、お店に迷惑だから」と促した。「大人げないよ、二人とも・・・」というと、二人は沈黙した。
運ばれた御造りや煮物にもほとんど手をつけることなく、女将に謝って会計をし、二人を連れだした。店の前の通りで「やるなら自宅でやりな。徹底的にやっちゃえば。でないと一緒に仕事なんかできないよ」と諭して、徒歩で来た美佐江を自宅前まで送った。
「二人とも、降りてよ。まだ決着付いてないじゃない。それにカオルは飲酒運転だよ」
恵子と顔を見合わせ、仕方なく「旨い珈琲入れてよ」と言って車を降りた。
 

 土曜になって11時過ぎにラネージュの前まで来て美佐江に連絡し、雨をかき分けるワイパーの音を聞きながら、夜には華やかなネオンに覆われる通りのうらぶれた風景を眺めていた。人通りはほとんどなく、傘もささずに店頭の片づけをする中年の女性や、雨をよけながら軒下で喫煙する作業着姿の老人。9月の雨が欲望の街を洗い流す、という感傷的な言葉はとても似合わない、ただの日常があると思った。
 15分ほどした頃、美佐江の車が横に止まり、「ついてきて」と手で合図をし、そのまま前に出て走り出した。助手席に誰かいたような気がしたが、煙草の煙と水滴が邪魔をして確認できなかった。駅前通りから国道に出て見失わぬように気を使いながら5分ほど走り、陸橋を超えた信号を右折するとすぐに大きなガラス張りのレストランがあった。車を止めると雨足が一段と強くなって、濡れるのを覚悟してエントランスまで走り、振り返ると1本の傘に収まった二人の女性がゆっくりと近づいてきた。美佐江と恵子だった。
「びっくりした?オケイ、久しぶりで遊びに来たのよ」
そう言って美佐江は目配せをした。
「社長、お久しぶりです」
といかにも普通に話しかけられ、「元気?」と返したが戸惑ってしまった。
「入ろうよ、予約してあるから」と美佐江に促され、鉄製の重い扉を開けた。

「今日はこういうこと?」
「違う、違う、偶然よ。昨日連絡貰ったの。でもいいじゃない?いろいろあったと思うけど、水に流すのも大人よ」
美佐江はそう言って次々に料理を注文し、メンソールのたばこに火をつけた。
「オケイ、ご主人と別れる決心ついたみたい。もう別居してるって。だから、うちで働かないって声かけたのよ。まだ、働かないと困るじゃない?あっ、困らないかぁ。もうおばあちゃんだしね。でも、何もしないと寂しいし、まだ若いし・・・」
美佐江は饒舌だった。過去の出来事は承知しているし、親友としての気遣いもあったのだろう。もしも、恵子を雇うことになれば、この先必ず俺との接点ができる。そうなって、過去を蒸し返すようなことになったら、自分が傷つくと考えたのかもしれない。ただそれにしても美佐江の真意を測りかねた。
 料理が運ばれ、気持ちも落ち着いて政権交代した民主党議員の批評やら、店でのちょっとしたトラブルの話題で、三人ともが気を使い合いながら、思いのほか和やかな雰囲気を取り繕っっていた。
「オケイなら、カオルのところで鍛えられてるから、女の子の管理とか、経理もばっちりじゃない?」
「そうかな。私、自信ないけど」
「カオルはどう思う?」
「井上さんなら問題ないよ。俺が保証する」
そう言った瞬間に恵子は、ほほ笑みながら何かを訴えるような視線を返してきた。ほんの一瞬だが微妙な間になって、それを美佐江が見逃すはずがないと思った。
「今日はお店、休業なの。秋の旅行を今年は中止したからね。その分、有給扱いでお休み上げたんだ。だから、この後じっくりと事務所で見てほしいしオケイにも内情を知っていて欲しいし・・・ね、カオル」
美佐江は意識的に同意を求めてきて、さっきよりも明らかに長い間を作った。
「いいの?私。帰ろうか?」
「遠慮しないでいいからね。ゆっくりしていって」
美佐江は恵子との過去を明らかに意識していると感じた。

 ランチの後、移動した事務所は市内を流れる西川の河川敷沿いにある6階建てのマンションの最上階にあった。1階はエントランスと小さな管理室が設けられ、共有スペースは小奇麗に整備され、自販機と観葉植物が置かれていた。各階に2部屋の3DKが階段とエレベータを挟むようにレイアウトされ、高級感のある造りだった。事務所のレイアウトは20畳ほどのワンフロアと宿泊もできる6畳ほどの部屋があったが、美佐江は衣裳部屋になってると言って笑った。フロアの壁際に3組のデスクが置かれ、打合せのできるテーブルと、接客用のソファーが一組あった。窓からは河川敷が一望でき、野球場とサッカー場が見渡せた。
「ここ、いいね。賃貸?」
「これ、うちの持ちものなのよ」
「凄いね。オフィスKMだっけ?」
「そう。KMって夫婦のイニシャルなんだよね。どうでもいいけど」
そう言いながら美佐江はレモンティーを振る舞った。
「じゃ、早速だけど、前年度の決算書みせてよ。あとは今期の月次損益。それと現金出納帳も」
「本格的だね」
「いや見るだけ。それよりも話を聞いたほうが分かるし」
美佐江は大きめのデスクの引き出しと、書類棚から「あっ、これこれ」と言いながら出してテーブルの上に並べた。
「オケイはここ、2度目だっけ?」
「確か3度目かな。竣工のときに来た記憶があるから」
ソファーに座った恵子は、美佐江とのやりとりから距離を置いていた。
「でも、こんな物件あるんじゃ、オフィスKMは安泰じゃ?」
「だめだめ、もう根抵当ついてるし・・・」
美佐江のその一言でおおよその察しがついた感じだった。

 オフィスKMは、年商が5億強で前期に限って言えば6店舗のうち3店舗が赤字で、その穴をラネージュとパブで埋める構造だった。人件費は2.7億あまり、仕入れが1.3億、店舗の賃貸料等経費が1.3億ほどありマンションの償却等を含め、8千万が赤字計上されていた。今期は、7月までの4カ月で5千万ほどの赤字が計上され、数字の上からは待ったなしの状況だった。
「酷いでしょ?」
美佐江は深刻な表情を作り、メンソールに火をつけると、溜息混じりに言った。
「この1年、何か対策してきた?たとえば賃貸契約の改定とか、仕入先との交渉とか・・・」
「1割くらいは安くなったと思うけど、ほとんど手がついてないんだよね」
「じゃ手をつけたら?」
「それってやっぱ、私の役目、だよね」
「ご主人は?代取なんでしょ?」
「あのひと、やる気ないし。IT企業で当てるとかいって二つ会社作っていろいろやってるから」
「そっちは順調なの?」
「なわけないじゃない。毎月赤字よ。だから突っ込んじゃってるわけよ。親の不動産とか」
「じゃ美佐江ママの仕事だね」
そう言うと美佐江はますます困惑した表情を浮かべた。そしてソファーの恵子のほうに目線を移して、
「オケイ、手伝ってよ」
と懇願するような口調で言った。

「ママ、ちょっと確認なんだけど」
「どうぞ」
「この仕入ね、手形振り出してる?」
「それは確か半金半手」
「じゃここの振り出し手形がそうなのか。けど金額多いけど他に割賦とかやってる?」
「ラネージュの賃貸料を確か割賦で・・・」
「どうしてまた?」
「それが分からないんだよね。でも前から契約更新時に一括で振り出してたみたい」
「保証金は?」
「確か800くらいは・・・」
「ちょっと法外な契約だね。なにか事情があるのかもしれないけど・・・。」
「で、カオル、どうなの?お店いくつか閉めたら軌道に乗ると思う?」

美佐江は確かにオフィスKMグループの顔でもあるし、夜の街では名の通ったママなのだろう。多くの女の子を仕切り、采配を奮って店を切り盛りする。美形の容姿とサッパリとした仕切りが、客筋の悪化を防ぎ、今の地位を確立してきた。クラブ方式のラネージュ以外は電話営業禁止を堅く守っていたし、その筋のあしらいも上手くこなしてきた。数字の上ではキャッシュでの仕切りが豊富なこの商売は十分に立て直せる計算ができるし、むしろそれは簡単な事のように映る。だからこそ、税理士はそういう指摘を安易にするだけなのだと思った。しかし、この不況下にあって机上の計算がすぐに通用するような商売はないだろうし、その商売特有の慣習も、そして固有の事情も複雑に絡み合ってるだろう。まして海千山千のこの業界では、強く出られなければ通用しないということくらいはすぐに理解できた。
 美佐江は自分の片腕のような存在が欲しかったのだと思う。自分の意図を理解して、役割を分担して担ってくれる存在を、うちの会社を辞めた親友の恵子に求めたのだ。確かに恵子は、総務として労務管理が長く、それ以前は経理も担当していたし、理解することはできるだろう。そして経営上の様々な問題を見聞きできる立場にいたことは確かだった。しかし、このままではそれ以上の存在には決して成り得ない。補佐することはできても、また親友という立場で美佐江の心情を理解することはできても、現実にコストカッターのような役割を果たせるとは到底思えなかった。
「ママの覚悟次第だと思うよ。確かにラネージュとパブで十分にやれると思うし、それがベストだと思う。この不況じゃ誰だってそうするだろうし。けれど、商売は細るよね。細ることの悪影響は必ず出て来る。その時に、踏ん張れるかどうか・・・」
「そうだよね」
美佐江は普段は見せることのない疲れた表情でうなずいた。
「俺も人のこと言えないけどね」
そう言いながら、その言葉はすべて自分に言い聞かせなければならないものだと思った。

 夏休みの間、次女の美樹は女房と長女美羽のもとで都会暮らしを満喫して戻った。夏休み中の美羽といくつかの大学のオープンキャンパスを回り、大学への憧れも多少は芽生えたのだろうけど、9月になっても積極的に受験に取り組む姿勢は見られなかった。
「みんな元気でやってるか?」
「お姉ちゃんは相変わらず口煩いけど、お母さんは調子いいみたい」
「大学行く気になった?」
「う~ん、偏差値足らないしどうしようかな」
「相変わらず漫画描いてる?」
「漫画って・・・アニメって言ってよ」
休み中に東京へ行く条件は進路を自分なりに決めること、だった。美樹には大学進学も漫画家修行もぼんやりと道は見える。けれども、東京という圧倒的な都会の大きさに気持ちが飲まれ、ますます自信を失って戻ったように見えた。
「何かをしてもしなくても時間は過ぎてゆくよ。時間の流れだけ意識した生活は怖いんだ。何もできないでいるだけで取り残されて行くような気持ちになって、自分の殻に閉じこもるようになる。自己防衛本能で自分と時間の流れを遮断しようとするんだよ。」
「引き籠りにはなんないよ」
「そうだな。気持ちが引き籠りにならないようににならないように何かしようよ。受験するならあと数カ月、もがいてみようよ。アニメーターやりたいなら東京で修業と決めてチャレンジしようよ」
「パパはどう思う?」
「どう思う?というなら、パパは漫研のある大学へ行って欲しいって感じかな」
「漫研って・・・・」
少し話せば笑顔が戻る。幼い頃、お姉ちゃんと同じようにできないと言って泣いていた美樹。テレビゲームで負けるとすぐに泣く美樹に手を焼いた美羽は、いつしかわざと負けて機嫌取りをすることを覚えた。あの頃からずっと美樹は美羽の背中を追い続けた。小学二年の時、六年生の美羽が自分のホームページを開設したのを見て、「私もやる」と駄々をこね、タブレットで描いた落書きのような絵を掲載したホームページを美羽が作ってやった。すると、しばらくして博多の女の子からコメントをもらい、「お友達ができた」と喜び、それから毎日夢中になって絵を描いて美羽のアップロードをせがんだ。美羽は「美樹が煩い」と言いながら、それでも泣きだす前にいつも美樹の願いを叶えてやった。
 美羽は女房の通院の手助けをしながら、大学では旅行サークルを主宰していた。前期試験が終わり、美樹が上京してくると間もなく、10日ほど国内旅行に出て、旅行記をまとめてマイナーな旅行雑誌に掲載した。美羽は美羽で、就職先が決まらず焦っているらしかったが、なぜか一般的な企業への就職を拒んでいるらしかった。「旅行関係の雑誌を作りたい」と言って面接した大手出版社から内定が出ず、中堅の二社と交渉中ということらしかった。
「お姉ちゃんは・・・あの人はパワーあるから心配しなくても大丈夫」
と美樹は言った。いまでも美樹は、美羽に対して絶大な信頼感を持っていた。
「この前も、そう、私が帰る一週間くらい前に出て行って、2日たったらいきなり電話きて、今、パリから、だって。あの人の行動は信じられないよ」
「一人で行っちゃう?」
「そうみたい。そんな気分だったんだって」
美羽は、美羽なりに閉塞感があるのだろうと思った。女房の闘病に付き合って、就職も決まらずに、美樹に頼られて。本来一家の主が背負わねばならない重荷を自らの意思に反して背負わされたような息苦しさに喘いでいるのだろう。申し訳ないことをしているという自覚は十分にあったが、同時に美羽の強さをもっとも信じていた。
「で、美樹はどうする?」
「一応・・・受験・・・」
「なら、それなりに頑張らんとな」
「わかってる」
自信のなさそうな、中途半端な口調で美樹はボソっと答えた。


「夏は散々だったわ」
9月の初めに久しぶりにせがまれて行ったラネージュの奥のボックス席に、ようやく現れた美佐江ママが呟いた。店内の数組の客席を挨拶周りしてウイスキーの水割りを数杯飲んで来た後、席に着くと冷えた白ワインをチーママに頼んで「お疲れ様」と三人でグラスを鳴らした。そして目配せをしてチーママが席を外すと会話は通常モードに戻り、
「もう、お店の数を半分にしなきゃダメみたい」
と溢し始めた。
「相変わらずショートしちゃってる?」
「8月も400かなぁ・・・今月も出足悪いし、もう資金も底突いちゃうし、ここと、パブは残さないとダメだけど、スタンドバーも、それから錦町のイタリア風酒場も赤字でどうしようもないのね」
「喫茶店は?」
「儲からないから意味ないし」
「兎に角、異常なのよ、この不景気。組合のメンバーが三分の一以上廃業しちゃうって」
「そんなにか?」
「女の子なんか辞めちゃって、コンビニでバイトしてたりね。あとは風俗行っちゃったり」
「風俗も苦しいんじゃない?」
「だからぁ・・・デリヘルとかそういうの。売りやっちゃうんだよね」
話しながら美佐江は二杯目、三杯目とワインをグラスに並々と注いで、半分くらいを一気飲みした。まだ8時を回ったばかりで、ふた組の客がほぼ同時に帰り仕度をはじめて、すばやく席を立つとママらしい振る舞いで特別引き留めることなく、「いつもありがとうございます」と頭を下げ「またいらしてくださいね」と丁重に挨拶をした。広い店内にはふた組の客しか残らなかった。
「毎日、こんな感じよ。活気ないよね、これじゃ」
「確かにね」
「こうなってくるとヤクザ屋さんも粗末にできないわ」
「まだ来るの?」
「月一くらいね。使ってくれるから最近は仲良くしてるわよ」
「ミカジメ、払ってるの?」
「払えないよ、そういうのは組合とか防犯も煩いし。それに払ったら赤字だもん」
「よく、何も言われないねぇ」
「だってほら、ボスが私を気に入ってるから・・・」
「口説かれた?」
「もう毎回。けど、それをかわすのがプロよ」
そう言って美佐江は20分ほどでボトルを空けてしまった。
「ねぇ、今夜、泊まる?」
「いや、娘が戻ってるから帰るわ。それにママのところだって子供が・・・」
「うちは、ほら、二人とも全寮制入れてるから。学校始まると私だけになっちゃうの」
「そういうことね」
「多感な時期にこういう商売の環境に触れさせたくないのよね」
「分かるよ」
「絶対にこの道には入れたくないのよね」というと、チーママを呼び止めて「エビス、グラスで2杯頂戴」と注文した。

「カオルにお願いあるのよ。今度の土曜はお仕事は?」
「休みだよ」
「だったら、ほら、お店たたむとどうなるか、みてほしいんだよね。うちの税理士は水商売よくわかってないのよ。経営者の視点でいろいろ、教えて欲しいのよ」
「ご主人はなんて?」
「いろいろ手を出してるからそっちに夢中でお前に任せるみたいな・・・適当なのよあの人は。それに親の土地が売れて三千残って。二千は自分でとってこっちには千しか回さないで、たたむならこれを資金にしろ、とか言ってるし」
「そういうことかぁ・・・じゃ、財務諸表をみせてくれないと・・・」
「なんでも用意するよ。だから土曜の昼にランチしよっ。その後事務所でゆっくりと」
「わかった。空けとくよ」
「そうと決まったらもう一軒つきあって。これからパブ回るから一緒に行こうよ」
そう言って急ぐように店を出ると、生温かい夜気に包まれた。「遠くないから歩こう」と言って美佐江は3台ほど客待ちで並んでいるタクシーの先頭車両に近付くと「ごめんね、今夜は歩くわ」と声をかけた。そして、「近道なのよ」と言ってコインパーキング横の薄暗い路地を抜け、小さな公園の前にでた。「カオル、遅いよ」と煽って公園に入り、「ここ抜けると、ほら、すぐに駅前通りに出ちゃう」と言った。公園には人影はなかったし、薄暗い街路灯がぼんやりと僅かな領域を照らしていた。美佐江は遊具の横にあるベンチに小走りに駆けよると座り込み、荒くなった呼吸を整えた。美佐江を追いかけるように近づき「そんなヒールで走ると怪我するよ」と言って横に座った。
「カオル・・・」
と言っていきなり美佐江は抱きついてキスをしてきた。息苦しさで、呼吸とキスが入り混じる。
「ルージュ、落ちるよ」
「いいの、直すから」
そういって荒々しく交わしながら美佐江が俺の手を掴むと胸に誘導し、自分の手をかぶせて大きく揉みしだいた。
「なんか、変なの・・・」
立ち上がって美佐江の手を引いて遊具の陰に回り、「ここで?」と言う言葉は無視して事を進め、立ったまま背後から交わった。美佐江は懸命に声を押し殺し、それでも荒くなった息遣いが駅前通りの騒音とまじりあって次第に増幅した。
果ててから少しの間、呼吸を整えて、「私、暗いから分からないけど、多分、ボロボロになってるよ」と美佐江は言った。
「なんだかいい歳して恥ずかしいよ。B級映画の激情シーンみたいなことしちゃった」
「しかも屋外で・・・」
「いやらしい女?」
「少しね」
「あっ、カオルが出てきちゃう・・・」
そういうとベンチに置いたポシェットから生理用品を取りだした。
「見ないで」
美佐江はたったいま終わった大胆な行為とは裏腹に恥ずかしそうなもの言いをした。
 

 総選挙で与党が大敗し、政権交代が現実のものとなって目の前に突き付けられた現実は、新たに表舞台に戸惑いとともに立つことになった軽薄そうな政治家達が政権を運営できるのか?という懐疑だった。けれども、メディアは「最初はできなくて当然なので、しばらくは見守ることが大事」という意味不明の論調を形成し始めた。今の日本に、そんな余裕などあろうはずもないのだが、それでも現実の厳しさを知らぬ知識人と称されるコメンテーターや政治評論家、キャスターなどが連日、出現してしまった左翼政権を擁護しまくった。
 その喧噪の中、9月になると株式市場は変調をきたし始めた。左翼政権の誕生に失望した海外勢は、日本株に対してリーマンショック後の底値からのリバウンドに対し、売りで対抗し始めた。師匠の言葉通り、新政権誕生とともに野村も利食い売りが出始め、9月は下げ一方の相場となって¥832で15000株売り建てたポジションが、2週間で¥700を割り込み、3週間で¥600を割り込むこととなった。9月は夏の暑さもすっかり姿を消して、連日冷たい雨が投資家の心を冷やしているかのようだった。

「若、¥600は節目なので手仕舞いしましょうや」
師匠に促されて約50万株もの分厚い板に買い戻しをかぶせ、それがものの見事に一撃で売られた。そして340万もの、初めての大量利食いを経験し、400万の種銭はついには3か月余りで1400万を突破した。
「 若、400は引きだしておいては?」
「差し迫って必要じゃないので・・・」
「いや、それを引き出せばあとは利食い分だけで勝負できる。いざというときに躊躇いがでないですよ」
「なるほど」
利食いの後、9月はポジションを建てずにもっぱら、野村やトヨタの株価を監視しながら、板の節目に関して師匠の指導を受けた。現物株を放すときにはどんなファンドであっても必ず売り建てる。当時は制度上現物の貸借を伴わない所謂「裸売り」が横行していて、個人投資家や国内証券ディーラーは苦しめられていた。規制のほぼない状態の日本市場で海外勢は現物買いと信用買いを駆使して買い上げた後に、揉み合いのなかで必ず売り建てをする。あとは、現物を成り行きで売ってさらには、成り行きで大量の裸売りを浴びせて株価を沈めてしまう。そうすれば、個人投資家の大量の追証売りを誘発できて、悠々と買い戻せる。こうした日本市場を舞台とする欧州勢の傍若無人が横行していたのだった。
「若、こういう遣り口は、小型株だと簡単にできる。それを当局は規制しないで野放し状態なんですよ。だからね、小型株は絶対に手を出さないでくださいね」
「でも、貸借でないなら空売りできないでしょう?」
「いやいや、裸売りは目立つからできないけれど、いくらでも借り株でできるんですよ」
「借りられたら誰でも?」
「できますよ」
手放す意思のない大口投資家と借り株契約をして品貸料と返済期日を決めたら、それを市場で売って
下値で買い戻せば、差額が出る。そこから借株料を差し引いたものが利益になる。それを制度化したものが、信用貸借指定なのであって、理屈はまったく同じだと。
「ライブドアの時にリーマンなんかそんなことを散々やって悪どかったね」
「・・・・」

「あの、堀江とかいうのも、ふざけた奴でね、そんなこと百も承知で持ち株を貸株して、テレビでは株価はわからないととぼけてたね」
「ああ、そういうことだったんですね」
「ほんとに許せないよ、ああいう輩は」
株取引の裏の事情も分からずに、表面上の情報で投資家気取りになって、やられた自分が恥ずかしかったし、情けなくもあった。
「若、今度は買いましょう。銘柄を探してみてください。こういう相場になると、輸出とかは厳しいんで意外な銘柄に資金が集中しますから。」
「探してみます」
6月から本格的に再開した株式投資は、野村の空売りで大きな成果となった。そして師匠の「今度は買いで」の一言が、やがて夢のような結果をもたらすことになった。

 冷たい雨が続いたりして、すっかり秋めいた9月の終わり頃、矢沢から相談を持ちかけられた。
「社長、今うちでモバイルゲームを手掛け始めてるんですけど、やってみませんか?」
取締役となって社内を預ける格好になった矢沢の提案だから、それなりに勝算もあるのだろうと思いながらも、ゲーム開発に対してはあまりいい印象はなかった。もともと、ゲーム開発は単独ではリスクが高すぎて成り立ってはいなかったし、いまさら任天堂やソニーのハード向け開発を手掛けるには遅すぎる。さりとて、それ以外のメジャーなプラットホームは見当たらなかった。
「社長、いま、携帯向けのゲーム配信が盛り上がりつつあるんですよ」
「携帯?こんな小さな画面で?」
「そうなんですよ。それが実はミソで、開発がやりやすい。」
「iモードとか、ドコモのプラットホームだろう?」
「そうです。AUもありますけど。これが一斉に出るんですよ。今年から来年にかけて。」
「こんなので、ゲームするの?」
「します。確実に。ただし認定を受けないとダメですね。後はDENAがモバゲーというプラットフォーム作ってるんでそれなら・・・」
「実際作ったの?」
「2作やってみたんですけど、意外といけるかも、という感触なんで・・・」
「なら、それが上手くいけば、来年の柱にできそうか?」
「本社の人材を使っていいなら、頑張りますよ」
「じゃ、具体的に計画作ってみてよ。それで決めよう。場合によっては新会社移行の柱になるかもしれないから」
実際に新会社移行の計画に関しては、画像を中心としたコミュニティサイトを立ち上げる計画になっていて、通常業務の合間を縫って3割ほどのコアプログラムを書き終えていた。しかし、ブラウザで大量の画像処理をこなせるだけのサーバーシステムの運用やコストの問題、さらには大容量のデータベースサービスを高額な料金で契約した場合の初期投資の問題等々さまざまな障害が山積していた。今の日本経済の状況下で新規のシステム受注に頼ってばかりでは来年以降の目途が立たないと思ったし、問題意識は矢沢と共有してもいたのだが。本来、全力で新規受注に打ち込むべき時と十分に自覚はできていたはずが、順調な株取引の成果にとらわれて、今すべきことへの覚悟を持つことができなくなっていた。

 野村の空売りを手仕舞いして、師匠から「次は買い」の指示を受けていた。社長室でもいくつか銘柄探しを始めてはいたものの、どれも決め手に欠いていた。いいと思う銘柄は将来性はあると思われるけど、奈何せん小型過ぎて投資の対象にならなかったし、何より日本経済の先行きが見通せず、有望なセクターさえ選別できなかった。
「矢沢、DENAっていいのか?」
内線で矢沢に聞くと
「モバゲー当たると思いますよ。だって相当数の企業が参加してるっていうし・・・」
仕事柄、矢沢は業界内の情報が豊富だった。情報系の学部を卒業しているだけあって、横の繋がりも結構豊富で、時折思わぬ仕事を一本釣りしてきたりもした。DENA・・・・、外部環境に左右されにくい業種でしかも内需型・・・、いけるかもしれないと思った。

 10月初め、最初に師匠宅に伺った時、DENAの話を持ち出してみた。師匠のあまり得意な分野でもなく、ネガティブな評価が下されるとは思ったが、3ヶ月の日足チャートを丹念に見ると、
「若、勝負してみますか」
と意外な返事が返ってきた。ザラ場は1株25万前後で揉み合って明確に買われているわけではなさそうだったが、二桁、三桁の注文で膠着している板は需給的には落ち着いているように見えた。
「これ、明確に買いが入ってますよ」
そういうと師匠はニヤリとほほ笑んだ。
「あと動くまでにひと月かからんでしょ」
何を根拠にそう言っているのかは分からなかったが、
「9月は買い下がってるから」
と表現した。
「分散しようといくつか選んだんですけど、これがいいと思って・・・」
「ならば、今、そこの71枚の板を取っちゃいますか?」
「えっ、25.5万で71枚・・・」
勢いとはいえ、すぐ上の76枚に増えた板を一気に買いついた。クリックした右手が震え、体の芯が熱くなった。
「若、ほんとに買うとは思いませんでしたよ。やっぱり若は度胸あるなぁ・・・」
振り向くと背もたれに寄りかかりショートホープに火をつけて深く吸い込んだ師匠の姿があった。
 

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