景気対策に後手を踏み続け、リーマンショックの影響が先進国で最も軽微と目されていた日本は、急激に輸出が行き詰まり、折からのデフレとあいまって先進国ではもっとも激しい景気の落ち込みとなった。時の麻生政権は、2008年末と2009年4月に真水が3割程度しかない補正予算を組むことで乗り切ろうとして頓挫。この極めて無能かつ曖昧な景気対策と日銀の無策によって円高は進行し続け1ドル¥80台に突入した。春から自民党に対する風当たりは一層強まり、期を逸した麻生首相は衆議院任期満了ぎりぎりまで引っ張った挙句の7月13日に解散総選挙を表明、21日に衆議院解散となった。それが真夏の政権交代劇の幕開けになるかもしれないということをメディアは連日報道し、世論はメディアの思惑通りに誘導され、日本に左翼政権誕生という政治史の汚点を作り出してしまった。
 結局リーマンショックという出来事は、政治家や役人は経済危機に瀕して右往左往するばかりで何もできない様が、国民の前に曝されてしまったし、事実何もできなかった。一方その政権の様を連日攻撃した野党に国民は期待した。その口先ばかりの主張を額面通りに受け取れば、日本経済は再生できるのではないか?と藁をも縋る思いになったのは当然で、かつてバブル崩壊で20年余りも苦しみ続けたことを国民は忘れてはいなかった。経済通を自認する麻生首相は、胆力に欠け、決断することができず、日本経済を立て直すことなど到底出来はしないという失望感が急速に拡大し、与党に対する政治不信は野党に対する信任に変わり、歓喜の中で左翼政権は産声を上げた。

 8月に入ると台風の影響で、お盆の時期には大雨となり梅雨明けの暑さが嘘のような肌寒い夏となった。そして、急激に天候が崩れ多量の雨に見舞われたかと思うと、晴れ上がりはするものの、気温は30度を超えることはなかった。お盆休みが終わり、連日雨空で晩秋を思わせるほどの冷たい雨が、リーマンショック後の不況に苛まれた日本人の心を冷やした。日本経済は1年経っても回復の目途が立たず、この先どれほど苦しまねばならぬのかと日本人は皆たじろいでいた。
 子会社を身売りして単独事業となり身軽になったとはいえ、新規案件の獲得では大いに苦戦を強いられた。年度内で総務省のシステム開発は終了し収益の柱を失うことも明らかで、来春までには新たな受注を相当数獲得せねばならなかった。月次の業績は低空飛行ながら何とか赤字を免れて年内は銀行返済もこなせる一応の目途はあったが、とても以前のような上昇志向を前面に押し出せる環境とは言えなかった。各企業のマインドは回復の兆しが見えない日本経済の前に委縮して、少なくとも今年度の新規投資は絶望的に見えた。

 8月になっても週2度の師匠宅訪問は欠かさなかった。その間、先行きで新会社の設立で合意していた矢沢が社内を取り仕切ってくれていたが、対外的な体面も社内組織運営上からも身分をはっきりさせねばならず、月末には取締役に名を連ねることになった。同時に本社内の別フロアに自身の会社を移転させ、矢沢は二足の草鞋を履くことになった。元来8割方当社の外注だったこともあり、このスキームは思いのほかスムーズで、社員同士の確執もなくむしろ歓迎する者が多かった。
 7月の小天井で¥878を10000株売った野村は、師匠宅に通いながらあれこれを教えを受けながらも、8月は二度取引をしただけだった。結局下値は¥770までで、¥80ほど抜いた時点で買い戻し、買いに転じて¥40ほど抜き、そして再度¥832付近で15000株の売り建てをした。
「師匠、また空売りしても大丈夫なんですか?」
「分からんねぇ・・・」
「なんか上昇しそうな気がするけど・・・」
「若、今の株価は戻り天井での揉み合いですよ。そこで売りで獲れて、買いで獲れた。そうしたら今度は売りがセオリーなんですよ」
「セオリー、ですか」
「そう。ただ必ず勝つとは限らんからね。上放れしたらすぐに手仕舞えばいいんですよ」
多分、師匠は確信を持って意見を言ってるわけじゃなく、セオリーを教えようとしてるのだ、と思った。「株価の動きはセオリーに支配される」というのも8月に教わったことで、だからこそ、売りを手仕舞いした後に逆張りでの買いを指示したのだ。当然、空売りも逆張りの買いも、含み損を抱えることになるわけだが、それでも師匠は悠然としてショートホープをくゆらせていた。
「8月は株価はそこそこ保ったでしょ。保ったというよりむしろ¥770底で反発してますよね。けれども、一旦は手仕舞いする場面という状況は7月の末と変わってませんよ」
「どうしてそう判断できるんですか?」
「若、若は個別の値動きしか見てないでしょう?でも、株価は外部環境によって左右されるもんですから」
「というと?」
「選挙ですよ」
海外勢のロングに対する姿勢は、政権与党の継続を前提として組まれたもの。それが、足元で野党優勢となれば、そして万一野党政権奪取となれば、当然一旦の巻き戻しになる、というのが師匠の説明だった。
「若、苦労知らずのおぼっちゃんには、何もできないということですよ。あっ、若のことじゃありませんよ。若は十分に辛酸を舐めてらっしゃる・・・」
師匠のどこまでも奥行きの深い笑顔がそこにあった。

8月15日に親父宅に出向き、仏壇に向かって合掌した後、子会社身売りの裏話をあれこれ聞かせ、久しぶりに夕食でも、となった時、
「お世話になってるんじゃ、有坂さんも呼ぼうか」
と親父が言い出した。
「お前、まだ通ってるんだろう?」
「週2度かな。やっぱりプロは凄いよ」
「なら、礼は尽くせよ」
「だったら親父、ご夫婦を誘おうか」
「そりゃいい」
遠慮がちな奥様を電話口で何とか説得し、先月次女の美樹と久しぶりに出向いた「築地」に席を設けた。
「では、ご夫婦で。こちらは親父と二人です。5時半にお迎えに上がりますから」
「ではお待ちしています」
気のせいか少し、奥さんの声が華やいだように感じた。

 いそいそと身支度に30分ほどを掛けた親父を乗せて師匠宅に向かい、「お盆ですので」と親父が言い二人で奥の仏壇に線香をあげた。
「もう35年になるか・・・生きていたら若社長より確か2歳上の・・・なぁ」
「そうですね。きっと、卓哉も弟ができたと喜んでます。ご丁寧に有難うございます」
僅か1時間ほどの間に奥様は和服に着換え、師匠はグレーのダブルのスーツといった正装で、親父はゴルフウエア、そして自分はボタンダウンのカッターといった何とも奇妙な組み合わせになった。
駐車場から小さな木戸を開け、雨に濡れた飛び石のステップを注意深く渡って裏から玄関口へ向かう。現代風に改築されて以前よりも格段に明るくなった築地の玄関口には法事の会席なのか喪服姿の男女数人が案内待ちをしていた。電話では満席と一旦は断られたが、「奥の離れが空いてますか?」というと、「かしこまりました」と二つ返事なのは、以前と変わらなかった。
「若、このような高級な・・・・」
「有坂さん、心配無用に願います。これもそのくらいの器量はありますから」
「では、甘えさせていただきます」
「どうぞ、どうぞ」
親父はいつになく上機嫌だった。久しく会食の機会もなく、夏場の暑さでゴルフも遠ざかっていたからなおさらだった。予約の旨を告げ仲居さんに案内された十二畳ほどの和室。かつては年に2度ほど接待で使っていた小じんまりとした中庭を挟んでいるこの座敷は、常連の指定出ない限り混み合っても使われないと以前に女将から説明を受けた覚えがあった。当時、上場を目指す勢いに任せて、中庭のししおどしが耳に付くといって止めさせたりもした。そうした少し傲慢な振る舞いが、自身の価値を高めると思いこんでいた時期が懐かしかった。

 4人とも寛いで冷酒の酔いも回りながら、それでも正装の奥様の乱れまいとする仕草もあって、その場はとても品のある席となった。運ばれるコース料理も見事な懐石で、最後には2尾しかないという金目を煮つけにしていただいて、赤出汁のなめこ汁と丁寧なぬか漬けとで少しのご飯をいただいた。それを奥様が大変に気にってくれて、「殿方は仕事と言いながらこんな美味しいものを召し上がっているんですね」と横目で師匠を軽くつついて見せた。
「お前、今日は、こんなのは特別なんだよ」
と言って師匠は言い訳をしたが
「有坂さんは奥さんに内緒だったの?」
と親父がつつき、一層和やかな雰囲気となった。
最後に季節の果物ををアレンジした小づくりの8品のデザートをいただいた時、奥様は涙ぐんだ。
「こんなお店に招待していただきまして、私初めてなので・・・」
「おいおい・・・」
「卓哉が生きていたら、若社長のようなこんな高級なお店は無理かもしれませんが・・・」
師匠も神妙な顔になって俯いた。
「奥さん、長生きしたら辛い思い出もあるでしょうけど、いまを明るく過ごすことが大事ですから」
「はい・・・」
「私もね、失敗ばかりしてきて、でもこいつも苦労してやっと人生を覚えとる最中で。出会いってあるもんですなぁ。喜連川で出会ったからいま、こうしてお付き合いさせていただいて。今後もこれのこと、よろしくお願いします」
そう言って親父は師匠と握手をして、師匠は
「こちらこそ。息子ができたと思って一生懸命にやらせていただきます」
と返してくれた。
師匠はこの日、本当の師匠になったけれど、この人を追い越さない限り、株式相場での成功はないものと確信した。