リビングのソファーに座ると「何か作ろうか?」と美佐江が言い出した。「パスタならすぐできるし、レトルトだけどパスタソースあるから」と言ってキッチンに向かうと「手伝う」と言って恵子も追いかけた。「さっきまで皮肉を言い合って険悪だったのに・・・しかも昼もパスタ・・・」と思い呆れたけど、空腹が良くないと思った。空腹は神経を苛立たせる。ほどなくして、二人は何の拘りもない様子で茹でたてのパスタとソースをそれぞれ大皿に盛って、茹でたフランクフルトと缶詰のホワイトアスパラと白ワインをテーブルに並べた。
「カオル、こんなのしかないけど食べましょ」
「ああ、不良主婦じゃ、この程度だよな」と返した。
会話は少なかったが、3人とも僅かな時間で料理をたいらげ、白ワインはボトル2本が空になった。
「オケイ、久しぶりだね。昔はよく泊まりに来てこんなの食べたよね」
「和彦君も子供達も一緒にね」
「そうね、今はどっちもいないけど。あっ、その代わりカオルがいるか」
「俺はピンチヒッターなんだ?」
空腹が満たされ、酔いも回り始めた。ギクシャクした会話は徐々にスムーズになってきて、たわいない冗談に笑顔が見えた頃には、恵子はだいぶ効いてきたように見えた。
「カオル、ビール飲もう。エビスとハイネケンあるけど、どっち?オケイも飲んじゃう?」
「いや、これ以上飲むと、帰れなくなっちゃうから遠慮しておく」
「いいじゃない、二人とも泊まっちゃえば?今夜は亭主に虐められた哀れな私を一人にするのは罪だよ」
「私はいいけど、社長は・・・ねぇ」
「俺は帰るよ。二人で仲良くやってよ。仕事のパートナーになるんだし」
「じゃ、もう少し付き合いなさいよ。ビールくらいいいでしょ?」
そういうと美佐江は半ば強引にビールを運び、3缶を開栓してそれぞれに手渡し「乾杯」した。そして、ビールを飲み終わらないうちに恵子は
「ミサ、私もう駄目、寝ちゃう」
と言ってソファーにもたれかかって目を閉じてしまった。
「この離婚主婦、寝ちゃったね」
「じゃ、俺もそろそろ・・・」
「待って。ねぇ、キスしよ」
「恵子が起きるよ」
「起きないわよ」
そう言って美佐江はもたれかかってきた。恵子に注意を払いながら酒と煙草にまみれたお互いの舌を荒々しく吸い合い、美佐江に導かれて豊かな胸を胸元から手を入れてまさぐり始めた時、恵子の瞼が動いたような気がした。「まずい、恵子に嵌められたか?」と思った。おそらく恵子は気付いたのだろう。いや、それ以前に美佐江との関係に気付いていて、一芝居打たれた気がした。
「美佐江、本当に今夜はもう帰るよ。代行呼んでくれないか?」
「わかったわ」
美佐江が電話すると混んでて30分くらいかかると言われた。
「外で待つよ」
と言って玄関を出ると、美佐江が追ってきた。

 肌寒いくらいの屋外に出ると、午後になって止んだ雨が再び霧雨のように降り始めていた。通りに面した門扉から玄関までのアプローチは石段になっていて雨に濡れて滑りやすく、塀沿いの丈の高い何本かの植木の間に支柱が設けられ、感応式の監視カメラとガーデンライトが玄関先を狙っていた。
「監視カメラは何台ある?」
「和彦の会社で売ってるやつよ。外に3台あるかな」
「室内もあったりして・・・」
「怖いこと、言わないでよ」
そう言いながら美佐江は傘を開いて差し出した。
「ねぇ、カオル。見られたっていいじゃない。オケイだって二股かけてたんだから・・・」
「まぁ、そうだけど。でもまた喧嘩になるよ」
「なってもすぐに元通りだから。ほんとはね、和彦は強引にオケイとしちゃったのよ。私、知ってるんだから」
「でも恵子は危ないこともあったけど関係してないって言ってたぞ」
「そんなの嘘よ。和彦は親友よりいいだろ?って言ってお店の子に手をつけたのよ。それが今の女」
「それじゃ確信ないじゃない」
「和彦はね、そういう男なの。だって私と付き合い始めても切れなかったし。そういう関係ってすぐに戻っちゃうのよ」
「そうか・・・」
「オケイは人の亭主と関係しながら何食わぬ顔で親友やってたわけよ。でも、私は仕方ないと思うけど」
「友情?」
そう聞くと美佐江は、シリアスな表情を浮かべ話し始めた。
「オケイはね、高校の頃、不良連中に虐められてレイプされちゃったのよ。その時は本当にかわいそうだった。結局親にも学校にも言えなくて、もうボロボロになっちゃって。左のね、手首に傷あるのよ。何度か植皮してだいぶ薄くなったけど、リストカットした時の傷なのね。親から私に電話来て、何かあったの?と聞かれたけど私も言えなかった。だからしばらくは男性恐怖症というか、精神的にね。そんな恵子を救ったというか、立ち直らせたのは、ある意味和彦なんだよね」
「そんなことがあったんだぁ」
「けど、和彦にしてみると、その話を告白されちゃって、なんか重くなっちゃったのよ。それで私のほうへ寝返ったというか・・・。それに多分、私のほうが水商売向きだと思ったのね。親の商売継ぐには私のほうが都合がよかった」
「それで美佐江と?」
「私ももちろん、オケイの彼だって知ってたし・・・、でも本当のこと言ってオケイは私にとっても重くなってたから。和彦、強引だったしね、信じないだろうけど、私、いい歳して初めてだった。」
ガーデンライトに浮かび上がる霧雨が徐々に激しくなってきて、二人とも傘からはみ出た部分がしっぽりと濡れてしまった。できるだけ寄り添いながらの立ち話で、恵子の過去を聞かされた。美佐江に悪意があるとは思わなかったが、自分の存在が二人の間に新たな蟠りを生むことは明らかだと感じた。
「それでよく今まで続いたな」
「だって・・・負い目があるのは私のほうだよ。それにオケイは誰かに頼ってないとダメな性格なのね。だからカオルにずっと頼りきりだったんじゃない?」
「そういうの、気付かなかったなぁ」
「きっとご主人じゃ物足りないのよ。もっと強い人じゃないと」
「じゃ、どうしてお見合いまでして農家に嫁いだんだろ?」
「私と親友でいるため、かな」
和彦と美佐江が結婚した以上、恵子は身の置き処を失ったのだ。もちろん、和彦や美佐江に対する不信感もあっただろうし、その時はもっとも辛い思いをしていただろう。けれども恵子は、和彦と美佐江から離れることはできなかった。後を追うように結婚して身を固め、常に二人への蟠りを残したまま、美佐江との関係を続けるしかなかったのかもしれない。

「ねぇ、カオル。もしも未練があるならオケイに戻ってもいいよ」
「いや、俺は切れたから。それにさ、俺も女房のことでは酷い亭主だから・・・」
「それもそうね。奥さんは大事にしないとね。こんな私が言えた義理じゃないけど」
「女房、実は癌でさ・・・東京で治療してるのよ」
「えっ!本当に?」
「乳癌、見つかったときステージⅢbだった」
「それで東京で治療してるってこと?」
「そう。長女のところから通院しながら。こっちで手術したけど再発でさ」
そういうと美佐江の顔色が変わった。
「いままで、家庭なんか顧みないで仕事ばっかでさ、本当に最悪の亭主よ」
「そんなこと、言わないでよ。私、聞きたくなかったなぁ」
「ごめん、言うべきじゃなかったな」
肩を寄せ合ったまま沈黙し、美佐江が二人の関係を確かめるように手を握り締めて、立ちすくんだ。何台かの車のヘッドライトが通り過ぎるたびに、別れの時間が来たと脅えた。
「私、ほんとに悪い女になっちゃった」
「俺も同罪だよ」
「こんな商売してると心が荒むんだよね・・・」
「俺だって同じようなものだよ」
「けど、寂しくて・・・」
「ああ」
美佐江の目頭から涙がこぼれた。そして、抱き締めて頬を拭うように胸元に押しつけた。
「私のこと、好きだった?」
「ああ、好きだよ」
「好きだから抱いたんだよね?」
「ああ」
「でも、勘が当たっちゃった。今日が最後かもしれないって・・・」
「勘?」
「そんな気がしたのよ。お互い、知れば知るほど辛くなるから・・・」
「ああ」
「今日はありがとう。私、なんとかやってみる。もうカオルには頼らないからね」
「無理するなよ、何かあったら相談にのるから」
「そんなに優しくしないで。甘えるから。オケイと頑張ってみるから」
「でも、約束な。厳しくなったら必ず連絡してくれよ」
美佐江は声にならずに胸の中で何度か相槌を打った。そしてこらえ切れなくなって「うぅぅぅ」と声をあげて泣いた。
「ああ、カオル、最後にもう一度キスして」
「代行来るよ」
「来るまでずっと。お願い」
霧雨が雨に変わった。傘を落として濡れながら美佐江を抱きしめた。