10月になると、台風上陸という大荒れの後に一気に秋めいてしまって、11月には冬の到来を告げるかのような寒い日が続いた。相変わらず先の見えぬ不況は続いていたが、12月には師走の幾分華やいだ雰囲気も街を彩り始めた。しかし、9月に発足した民主党政権は、お祭りムードとは裏腹に不況であえぐ日本経済をなす術なく放置し、それでもテレビメディアは新政権の一挙手一投足を取り上げることに執心で、報道機関の体をなしていなかった。

 9月に野村を手仕舞いして新たに買いで仕込んだ76枚のDENA株は、師匠の言葉通り10月に入るとジワジワを上値を追い始め、30万を突破して野村の売りで手にした350万とほぼ同額の含み益をもたらした。そして11月に入ると好調な業績とともに俄然上昇に拍車がかかり始め、1株47万にタッチ、さらに上昇の勢いは止まらず、12月には50万を突破しさらに上値を伺っていた。矢沢の言葉にヒントを得て25.5万で一気買いした株が3か月足らずで倍増し、「この辺りで利食いしておきますか」という師匠の言葉に従って買いが入り始めた板に3度ほどぶつけて決済、口座の残高は3400万を超えた。6月時点で400万の資金が、師匠のもとで取引を開始し野村の売買で1400万になったとき、心から師匠は凄い人だと思った。チャートや板状況で需給を読み、まるで板の向こう側が見えているように、短期筋がどう株価を動かしてどう利鞘を抜こうとするのかがわかっているように、的確な判断と解説をした。
 師匠宅で板を前にして何度となくその理由を尋ねた。その度に師匠は「山勘ですよ」とか「偶然です」とショートホープを燻らせて笑みを浮かべるだけだった。結局、その後も師匠からその答えをもらうことはできなかった。
「株はどうして買い上がるのか?」という質問に対しても「わかりませんよ」と言っていた。株を買うのに上値を追う必要などなくて、少なくとも買おうとするなら売り買い相対する板に指値するか上値を買えばそれで済むだろうと意見をぶつけてみた。現実には買い圧力が強まると投資家は上値を競うように買いに走る。銘柄に好材料が出ればそうなるのは分からなくもないのだが、そうでない限りはもっと静かなものであってもいいというのが、俺の意見だった。
「若、大分いろいろ分かってきましたね」
と師匠は言った。そして反対に師匠に
「いつか、私は若に、株価の話をしたと思うけど覚えてますか?」
と聞かれた。 覚えていないはずがない。本格的に師匠宅に通うことを決意して師匠から最初に手ほどきを受けたとき、「株価というものを信じますか?」と質問された。原価が僅かに10円、20円の10本入りショートホープの箱を手にとって、「私が1500円で買い取ると確約したら原価10円でも若は1000円で買うんでしょう?」と言われた。
「もしも株取引が相対なら、たとえば1株1000円でどうか、と持ちかけられたら相手は値切りますよ。もっと安くならないってね」
「そりゃそうですよ」
「けれども、売り手が1人、買い手が2人の場合はとたんに話が複雑になるでしょ?複数の買い手が競うと売り手は好条件を選別するんです。1010円と1020円の価格提示があれば、1020で売ろうとする。けれどどうしても欲しければ1030の新しい提示があるでしょう」
「それで・・・」
「そうですよ。けれども現実は量の問題もあるので、単純そうに見えて板というのは本当に難しくて複雑なんですよ。だからね、常に複数の売り手と買い手がいて、それぞれ株数も違ってて、思惑も違う。もっと言うと板に意思表明していない売り手と買い手が存在してるわけで、その人たちが見える板にぶつけて来る」

「師匠、でもそうなると余りに不確定な要素が多すぎて読むなんていうのは夢の夢なんじゃ?」
「若、その通りです」
「だったら・・・無理ですよ」
「いや、無理じゃないんです、それが」
「何か読める秘訣があるんです?」
師匠にそんな質問をしたときに、吸いかけてるにも関わらず新たな1本に火をつけようとした時は、必ず答えが返ってきた。

「若、板の様々な思惑は、言って見れはノイズなんでそれは無視できるんですよ。不確定な要素といっても株価を動かす本質的な力にならんでしょう」
「無視、ですか」
「そう。でも、大量に売りたい、または買いたい大口は基本的に株価の決定要因になるので、それだけ考えることにしましょう。そうすれば板が単純化できますから」
「なるほど・・・」
「大口はまず不測の事態に備えて、離れたところに大きな板を指値しておく。そして、短期筋だったら、朝寄りや後場寄りから株価を動かそうとするんですよ。それが分かってるからロング勢は板が落ち着いたところでの売買をする。具体的には短期筋は寄りから30分が勝負で、ロング勢は10時半から前引け、2時過ぎから大引けで売り買いすることが多い。短期筋はデイトレなんで1%抜けたら御の字なんですよ。そういうことが分かってると、板は時間帯によってどう動くのか、感触が十分につかめるようになるんです」
「あ~あ、そうかぁ・・・」
「いいですか?多分、今の若の銘柄(DENA)なんか、業績に先高感があるからロング勢は買いたいわけですよ。けれど、短期筋がそれを邪魔するように寄りつき後買いあがる。だがある程度買ったらそれ以上は買わないから、買いあがったところで様子を見る。それで、様子を見ながら利食いするんです。短期筋は必ず利食いするからね、株価に興味がないポジションだから。そりゃ材料が出たら別ですけど。落ち着いたところで、ロング勢が買いを入れるから、だから10時半からとか、2時から値を保つ銘柄は強いんですよ」
「そこを見るわけですね」
「そうです。それで、下げ相場の場合は、ある時点で揉み合いになるんですが・・・それは空売りの買い戻しであって、売り買い同一なんですよ。だから後は売り方に対して買い方が現れるまでじっくりと待たないといけない。買い戻しをして買い方がつかない場合は再度売りなおしてくるからね」
「じゃ、上昇の場合は?」
「過熱感が出て来ると短期筋は買いあがらないで売りに回る。なので陰線になって天井になるけど、下げて来るとロング勢の買いが来るからその前に買いに回って二番を取るんです」
「でもそれは急騰の場合ですよね」
「そうそう。だから若の銘柄のような上昇の仕方は本当に強い。株価が倍になってもまだロング勢の買いが入ってるからね。」
「若、板を見るというのは、実際の売買を見ると言うよりも、そういう大口の動きを確認する作業なんですよ。だからね、別に今の株価なんてのは、どうでもいいんですよ。問題は買った後、空売りした後にどうなるか、だけなんです。それを読むヒントが板いにあると思ってください」
「なるほど。そうやって見てみます。でも・・・」
「でも?」

「大口の行動はどうやって予測すれば?」
「業績も大切だけど、一番は地合いですかね。特に海外勢がどういう行動を取ってくるかは、海外の状況を見てないと分からんのです」
「米国市場、ですか?」
「そう。でも夜寝れないからねぇ・・・。朝、早起きしてニュースと引け値をチェックする習慣付けるといいですよ」
「師匠もそうしてますか?」
「私はね、ほら年寄りなんで、朝はいくら早くても大丈夫だから」

 秋から年末にかけて、DENA株はほぼ一本調子での上昇を見せた。もちろん、陽線と陰線を交互に織り交ぜての動きだったが、日足チャートは強い銘柄の手本のような動きを示した。師匠宅に伺うたびに、日足チャートを見て株価の推移を予想しあった。そして、11月にはほぼ、師匠と一致する予想が出来るようになった。また、一向に買われない自動車株や、野村などの板を見ながら何度も注文の出方を議論したりもした。時折見られる大口の売り買いなどを、カレンダーと照らし合わせてどういう意味があるのかを師匠は丹念に解説してくれたし、その時の経験が、自分の全財産になろうとは予想駄にしなかったが・・・。そして11月の中旬になって、師匠の70歳の誕生日の祝いを申し出た。
「師匠、以前家族で使ってた伊豆の銀水荘という旅館があるんですけど・・・骨休めに行きませんか?」
「そんな若、とんでもないですよ」
「いや、ちょうど、女房のところへ行かねばならないんで、来週は休みたいんですよ。なので、奥様と行ってきてください」
そう言ってパンフレットを手渡した。
「若社長、そんなことしていただくようなこと、してませんから」
と奥様は躊躇っていたけれど
「あの、ここの女将に頼まれまして。いま、オフシーズンで本当に困ってるみたいなんですよ。なので、俺の顔を立てていただけませんか?」
という言い方をしてようやく納得していただいた。
「稲取ですか。ここ、名旅館でしょう?」
「いいところですよ。場所は海岸縁で冴えないんですけど、料理も接客も部屋も絶品ですから。ちなみに露天の部屋風呂があるところ予約してますから、ご夫婦で」
「いまさら、こんなバアさんとじゃ、御免ですよ」
「私だって・・・」
冗談を言いながら奥様は、「卓哉の写真を持って3人で行きましょう」と師匠に言った。
「是非、そうしてください」

 老いたとはいえ、何十年も人の欲望が渦巻く相場の世界で生きてきて、なお矍鑠とした雰囲気を失うことのない師匠の目に光るものを見た。「株で儲かってるからじゃありませんから」と言うと「わかっております」と答えた。師匠には気持ちが伝わって、その気持ちを汲んでくれているのだと思った。俺自身、こんなに親切にされた経験がなく、商売がらみで父親との関係もギクシャクする日々が長かったし、義母は数年前に親父を見切って去って行って以来音信不通になった。師匠夫妻を親のような感覚で、唯一の拠り処と感じていた。